ムーンソングについて長々と
1.ムーンソング
[Alexandros]6枚目のアルバム「EXIST!」の1曲目であり、
このアルバムのリード曲にもなっている。
ラジオで曲が解禁され初めて曲を聴いた時、
”君がいなくなった世界で 僕はどれくらい残るの?”
というフレーズが印象的で耳に強く残った。
「残る」という言葉に気が遠くなるほどの時間を感じる。
どことなく「さみしい」という気持ちが浮かびあがってくるような歌詞だ。
この歌詞の主人公は静かな夜空の下、残された一人の時間をひしひしと感じ、
いなくなった「君」を想い、さみしさを募らせているのだろうか。
はたまた、この歌詞を書いた洋平さん自身にそのようなさみしさを募らせた経験があるのだろうか。
「さみしい」という感情を、その言葉を使わず行間で引き出させるとはなんともにくい表現だ。
とかく、このワンフレーズのみで私の中で様々な憶測と感情が入り乱れた。
この部分を聞いた限りだと、[Alexandros]では比較的少数派な恋愛ソングのように聞こえる。
季節は秋、アルバムの始まりがこれぐらいの切ない恋愛ソングでも悪くないと、むしろ私は大歓迎だと喜び胸をときめかせた。続く他の歌詞に期待を寄せた。
しばらくしてMVが解禁となり改めて映像とともに曲を聴く。
映像の右端には歌詞が載っていた。
曲を聴き歌詞を眺めていくうちに「あれ?」という気持ちになる。
”眩しかったあの時代を 昨夜不意に思い出した
胸の奥底に痛むよ 断片的でしかないくせして ”
恋愛ソングであるならばこの「眩しかった時代」は2人でいた時、と考えられる。
でも、恋愛ソングであるならば「時代」ではなく「その人」を思い出したと書くほうが
自然ではないだろうか。
一瞬の花火の輝きと比較し、しらけきって家路につく自分。
”We were so bright, high ”
私たちはとても輝いてい「た」。それはすでにもう過去のものとなっている。
この主人公のさみしさの正体は何か。何を失い今途方に暮れているのか。
失ったもの、それは「過去の輝いていた自分」だ。
これは青春の光が消えかけた一人の人間の、新たな旅立ちの歌だ。
なぁんだ、恋愛ソングではないのかと若干残念な気持ちになりつつも
はた、とそこで最初に気になったあの歌詞をもう一度思い出す。
君がいなくなった世界で僕は 「どれくらい」 残るの
この「どれくらい」という言葉の先にあるものが「時間」ではないことに気付く。
輝きを失った「自分」は今ここにどれくらい残っていて、はたして自分はちゃんと存在しているのか?その存在は見えているのだろうか。
という風に意味合いが変化するのだ。
奇しくも、今回のアルバムのタイトルが「EXIST」=存在する、である。
「夢」や「目標」が消え、夢中になっていたものから自分が切り離されたとき、
自分の「存在意義」があやふやになる。その不安をこの曲で投げかけたかったのではなかろうか。
なるほど、この曲が1曲目になる所以も大いに納得である。
この曲において主人公は月とともに歩き、その月によって自分の姿が照らされているのだが、月もまた照らされている存在。
「夢」や「目標」が自分を輝かせるように、「月」もまた「太陽」の光があって輝くことができる。この世界に現れ人の目にとまる。
月と主人公は同列の存在であり、この「月」を主人公は過去の自分に見立てたのだろう。
”次”が浮かんだその場所へ ツキを頼らずに向かおう
過去の輝かしい自分にとらわれることなく、先を進む強い意志がうかがえる。
っていうのを長々とかいていたんだなー、笑。アルバム発売前に。
MV公開されたあたりでぶああああああっとな何か湧き上がるものがあって。
こういう瞬間、体験したことあるんです。
高校の演劇部の県大会終了後がまさにこれだわ。
あの時、県大会の各校の代表審査員になって、なんかしらないけれど夜青少年の家に泊まって
他校の代表生徒とあの高校の作品があーだこーだとよくわからん議論をくりかえして
県の代表を選ぶっていう濃密な3日間を終え、
そこで自分の高校の部活が終わったのもありものっすごく虚無感におそわれました。
あとは、社会人になってふと大学の時のサークルのみんなで毎日絵書きまくってたときのこととか思い出してあのころ夢中になれるものがあって楽しかったな、って思ったり。
今、独身時代にあっちこっちライブで遠征してはブログに事細かに感想をあげていた情熱を懐かしんだり、
「あの頃の自分よかったなー・・・」
と思うことばっかりですよ!えぇ、大人になると。
なので、この曲は悪いけど現在のメインターゲットである若き中高生より、
洋平さんと同世代である私のほうがずっとずっと胸に響きますからね!ね!
くやしかったら歳重ねろってんだ。
さ、書き温めていたこの記事をそろそろあげて、他の曲の感想をまた次の記事に
あげるとします。