one day I remember

今思うこと、ある日いつか思い出す、その日のために

その重さを測るには

会社→休み→会社→休み→会社、みたいな勤務でこの1週間すごしてますー。 ちょっとかるく大学生気分だぞ。何しよう。 昨日は夜通しyou tubeでシドの動画みまくってた。センチメンタルマキアートツアーのDVDの まおにゃんの一風変わった格好が好きで、絵でそれっぽいのを描いてたら3時になって寝た。 で、朝でーす。おはようございまーす。 今日は図書館に行こう。what's IN!?がおいてあるあの図書館へ。 それからバチスタをいい加減読み終えよう、上巻読み終えてないのに下巻読み出しちゃって 白鳥と田口センセのやりとりが楽しくてさくさく進む。うわあああああぁぁ。 ちょっとニュースの話でも。くらーいので追記に。 臓器移植の法律の改正案が暗礁に乗り上げてるっていうニュースやってますね。 ほかの国でやれてることがなぜ自国でできないのか疑問ですよね、おなじ人なのに。 倫理観の違いなのでしょうか。脳死を人の死だと認めたくはない、という。 けど、そうこうしてるうちに1人の死だったはずが2人の死になってしまう。 生かせる命を生かす、救命救急ではそのつらい選択を秒単位できめるというのに、 脳死に関してはひどくもたつく。これはどういうことか。 こうかくとね、「脳死をさっさと人の死と認めなさい。」と言ってるみたいに見えますけど、 認めちゃうと、私の父方の祖母はもう半年前に亡くなったことになります。 脳卒中で脳と体がぷっつり切れた状態です。もうつながることはありません。 しかし心臓はものの見事に元気。右手は私の指を握ります。 この前行ったら焦点はあってないけど目を見開いて一生懸命瞬きしてました。いつもまぶたが重そうで 目がほぼ半分閉じられてる状態しか見たことなかったからびっくりした。まつげが意外と長いことに気づいた。 そこで私は、「生きてる」って思ってしまった。 けど、見開いてる目がまぶたを重く乗せている目より生きた感じがしないのを見てそれもまたつらいと思った。 よくわかんないんです人の死なんて。 誰が納得したらいいの。誰を納得させたらいいの。 法律なんて「第三者」に決められたくない。それだけは確かです。 たとえば本人が意思表示できなくて近しい人が死を下した場合、その人に罪悪感はあるんだろうか。 あるんだとしたら、もうその罪悪感で十分本人の命の重みは測れるようなきがする。 少なくとも、年齢で命の重みは測れないな。 病院からしてみたら、意思表示は必要にせよ、きっと今より脳死で体だけ生きてる人に使うベッドの数はぐんと減って、 その分生かせる人にベッドが使われてその人が退院して、お金もちょっと入って・・・って身も蓋もない話してますが赤字経営の病院には切実な話。終末期医療なんかにも力が入りそうですね。 このように、概念ひとつ変えるのに、あらゆる想像が仮定をつくっていき、結果世の中をころっと変えてしまう。ただ、まだそれは想像の範囲内でしかない。 意思表示カードという砦があるのであれば、これ以上想像力が人を脅かす前に変えるべきだと思う。 稚拙で申し訳ない。