one day I remember

今思うこと、ある日いつか思い出す、その日のために

コンコードグレープ

  皆さん、朝には弱いですわね。9時前はアクセス少なくてすいすい予約いたしましたよ。 けど、これほどまでに混雑するとはびっくりです。 9年前の全国ツアーの先行予約はどうだったんでしょう。 あの時ラルクは全盛期だったわけですが、こんな状況になっていたのでしょうか? 今って、あの時に比べるとファンの人数は減ったけどその分一人ひとりが濃くなってるわけで。 客単価は高くなってみんなラルクのロイヤルカスタマーになっているのです。 CDシングルを買う人=ライブに行く人・ライブに興味のある人になってると いってもいいぐらいでしょうね。 以前はCDシングルがたとえ100万枚売れたとしてもライブまで足を運ぶ人の割合は 今よりずっと少なかったと思います。それぐらい薄くて軽く聴いてる人が多かった。 だからまぁ、状況としては今とどっこいどっこいか ひょっとしたら、今より混雑してなかったかもしれませんね。 あ、そういえばまだネットではなくて電話での予約でした。 それから、こうやってブログで「サーバーに繋がらない!キィィィィ!」なんて やりとりを見ることもなくて。きっと電話に一人八つ当たりをしてたに違いありません。 手伝ってもらっている友達に電話をする余裕もなくひたすら同じ番号を打ち続けて… 手段も違えば状況も違いますね。 ファンの濃度といえば私が時折ぐるぐる考え込んでしまうことがあります。 今ってはまってしまう人はとことんどっぷり漬かり込んで 「濃縮還元この濃さがウェルチ!」の域にまで達してしまいがちじゃないですか。 それか敬遠するかのどっちかの2極化がさみしいなぁって思うんです。 売る側も新規開拓によるリスクを取るより、ロイヤルカスタマー向けの商品を 売り出すことで守りに入ってるでしょ。 ラルクの曲は全盛期より随分ポップ志向のものが増えてきたし、 ハイディの歌い方だって癖が大分なくなって聞きやすくなった。 これならいろんな人が聞けるよね聞いてくれるよねなんて淡い期待をするも やっぱり聞いてくれるのはファンだけ。もしくはタイアップ先のファンだけ。 ラルクがどんなにポップで間口の広い曲を作っても結局はファンの濃度や売り方で ずいぶんと狭められている気がするんですね。 自分のファン濃度に嫌気がさすことも少々。 たとえばファンではない人にラルクのここがいい!この曲のこんなところがいい!って伝える時。 伝えたいラルクが大きすぎて、伝えきる前に自分が話していることが酷く自分の趣味に偏っており 内輪的でしかないことに気づいて虚しくなってしまうことがあります。 たぶん、私がサークルで大好きなラルクの話をせずにガチャピンガチャピン言ってた理由には これがあると思います。だって、ガチャピンのかわいさは分かりやすいし、 伝わらなくたっていいと思ってるから。 そこから考えると、どうやらラルクのことは伝わって欲しいと思ってるんですね私は。 私の勝手な解釈と愛を微塵のズレもなくすべて。そんなの無理。ばからしい。 相手に解釈の余地も与えないなんて虚しさと醜さがあふれんばかりだ。 こんなこと考えてる時点ですでに私のファン濃度はウェルチ並なのです。 間口を広げたかがってる私がこんなんじゃ駄目だよねぇ。 しかも、「伝えるからにはすべてを」って考えてる時点で、それは自ら濃いファン層を作る きっかけになってるんじゃないかってことに今書きながら気づいた。うわあぁぁぁぁ! そりゃぁ、敬遠されるよ。うん。 私、自分のファン濃度を薄めたいんです。 たくさんのアーティストの中からラルクも聞くよ、ぐらいには。 血中のラルク濃度を薄くしてさらっさらの血液にしたい。そんでもってさらっとラルクの曲聴いてさらっとライブなんか行ったりしてさらっと雑誌のラルク記事読んでさらっと「あ、ポップジャムラルクでてる。見とくか」なんて余裕かまして見たい。テレビの前で録画ボタン手に構えてるなんてもっての外!そのためにいろんな曲を聴こうとしてる。お店に流れている有線には自らアンテナ張って受信する。 できるだけ、「ラルクが好きな人が好むような音楽」以外で引っかかっるものに飛びつく。 広く広く、薄く薄く。そう、全てはラルクの間口を広げるために。 やっぱりウェルチ… 内輪で喜びを共有しあってる時の自分のファン濃度は愛しい。 けれど、外に向かった時それが邪魔をしてしまうことも認める。 まぁ、程よく付き合っていきましょうか。