one day I remember

今思うこと、ある日いつか思い出す、その日のために

ことのは

  2回続けていう言葉が好きだということに最近気づきました。 もりもり食べる、きびきび動く、ドキドキする、わんわん泣く、いきいきとした子供、 てくてく歩く、もこもこしたセーター、きらきらする等々。 子供っぽいかもしれないけれど、とても血の通った表現だなぁって思ってます。 というのも私がよく読んでいる、よしもとばななさんや川上弘美さんの本の中で こういう表現がよく出てくるんですよね。 あと、この2人の作品において、料理をしている場面にドキドキすることが多いです。 力をもらうところでもあるし、料理を正しく作って正しく食べてきちんとお片づけするといった この順序だてて一連の動作を行い己の欲求を満たすという所に私は美徳と色気を感じるんですよ。 だってさ、欲って激しいじゃない。 お腹すいたらすぐにでも食べちゃいたい、お腹を満たしたいっていきりだつわけじゃないですか。 けどそれを抑えてまでも人は順序だてて料理を作る。だしをとり、食材を見目麗しく切る。 欲の激しさに対する料理のストイックさに惚れ惚れするんです。 そのストイックさは時に欲を抑えてくれることもあるんです。匂いや変化、 ただ食べて欲を満たす、といったところからより美味しいものを丁寧に食べるといったところへ シフトアップする時の高揚感、そういったもので荒々しかった欲が収まる。 より高度な欲の満たし方をしようとするところに美徳が生まれるのです。 これは食欲じゃないところにも適用されますね。 あ。だからか、私がこの2人の作家の描写に色気を感じドキドキさせられるのは。 ところで、唐突ですが日本語のよさ、美しさってどこにあるのでしょう? 近代文学で使われているような古語的な文? それとも漢検1級や2級にでてくるような難しい常用外漢字? 和製ロックだとか「和」を愛するアーティストの歌詞にはしばしば上のような表現が使われますね。 いつの時代も「和」ブームというものがなぜか日本人の間に存在していますが 自国のものを愛そう、原点回帰だというわりに帰る場所が自分たちが 普段使っていないものであることに疑問をもたない。 結局それは「回帰」ではなく日本人がかつて英語を使うことに憧れたのと同じ様、 日本語としてではなく外国語として受けいれて無邪気に言葉遊びをしているだけなんだと 私は思います。だからそれらを多用して「日本語すばらしい、日本的だ」って示されても 果たしてそうか?ぱっと見イメージはカッコよさそうだけどそれだけね、と 意地悪な私はつっぱねてしまいます。 日本語のよさや美しさをぱっと見だけで評価されたらたまったもんじゃない。 私が思う日本語のよさ、美しさっていうのは、女の人が手を洗う時のような しなやかさだと思うんです。うわすごく抽象的。 たとえばです、ハイディの半裸体を生で見たとしましょう。 英語圏の人は一言、「marvelous!」や「amazing!」等生き生きと大きな声で伝えきるでしょう。 それだけで私たちはその人の今抱えてる感情の全てを理解できるはずです。 でも日本人は表に出せる感情の起伏が外国人より小さいと思うんです。 だから「すばらしい!」って一言だけでどれだけがんばって伝えようとも 自分のうちに秘めてる感情の全てが伝わることなく負けてしまうんです。 それに、英語みたいに感情や状態を表す単語が細かくわかれていません。 だから、私たちはあらゆる言葉をつけたすことで表にでている「すばらしい!」と言う感情を 内に秘めている物と同等にしようとします。 このつけたすっていうのが日本語のいいところだと思うんですよ。 一生懸命いろんな言葉を駆使して感情の大きさを伝えようとするところ。 それが大きさだけではなく同時に深みもあたえてくれるところ。 すばらしい、っていうまっすぐなひとつのことばが修飾されることによってしなやかに動く。 人それぞれの「すばらしい」が言葉の組み合わせによって千差万別に生まれる。 その柔軟性がいいなって。 時にまわりくどくなったりわずらわしくなったりもするけどね。 そういう日本語のよさ、現代語を丁寧に扱ってる作家さんが好きです。 インパクトだけじゃない、イメージだけじゃない、綺麗かっこいいだけじゃない 内を埋めてくれる日本語を扱う人が好きで、わたし自身煩わしい!って思われても そういう文章を書いていられたらなって思います。